今日はちょっと「ちりとてちん」のほうに絞ってお話させていただきます。
ごちそうさんは正直な所、あまり筆者が解説する部分も少なくなって参りました。
喜代美は弟子入りを認められ、内弟子修行を始めることになりました。住み込みでいろいろと経験していくことになるのですが、草若師匠からは大切なお話がありました。
落語家の修行をするにあたって、もちろんですが自分で稼げるようになるまではお給料のようなものはもちろん無いし、収入はありません。そして住居代はかからないのでタダです。落語を教えてもらう稽古も、お金を取りません。
いぶかしがる糸子に草若は言います。
「落語はみんなのもんです。お金をとって教える道理がおまへん。」
落語は「オープンソース」だと言っているわけです。
オープンソースという言葉を聞いたことがあるでしょうか。コンピュータープログラムの世界で始まった考えで、プログラムを作るためのもっとも重要な「ソースコード」といわれるプログラム本体を、公開=オープンにする、というものです。
つまり落語で言えば、落語演目の筋書き、セリフなどの脚本部分は全て公開されており、誰でも見たり知ったりすることができるのです。
公開されているということは、違う落語家が同じ演目をすることも当然あるわけです。世の中にはソーシャル・ネットワークというサービスがあちこちにありますが、それらの中にもオープンソースなプログラムは含まれています。こうしたものは無料で配布されるアプリとして人々の手に渡ることも多いです。こういうものをフリーソフトと読んだりします。
オープンソースやフリーソフトは共有の財産である、という考え方の他にも私は「ものにではなく、人や技にお金を支払う」という考えがあるのだと思っています。
ITやコンピュータの世界には「無料」のものが沢山あります。しかし、無料があたりまえだというわけではないのです。
落語家たちも、元は無料のような演目に、ほとんど舞台装置のない演劇やオペラなどに比べればお金のかからない公演をします。しかし落語は「もの」を見せているのではなく、元はタダのものを「いかに面白く、魅力的に、惹きつける技をもって、演じているか」ということを商売としているのではないでしょうか。
ネットのサービスがユーザーの動向を調べているというと「気持ち悪い」といわれることがありますが、落語家は舞台を経験して「あの時、受けがよかったな」とか「あの部分、いまいち客の反応がわるかったな」ということも反省して次の公演に活かしていくわけですが、そういうユーザーの動向を研究することを気持ち悪いという観客はいるでしょうか。それもまた技術です。
我々プログラマーも、伊達や酔狂で無料のアプリを作ったりしているわけではありません。タダで当然、不具合があったり、ちょっとサービスがつながらなくなったり、UIの変更が気に入らないと、天狗芸能の鞍馬会長のように「アホ!カス!死んでまえ!クビじゃ!クビがイヤやったら死ぬまでタダ働きじゃ、このボケ!」と怒鳴っている人がよくいます。
落語家は観客が育てる部分もあると思います。それは演者と観客が同じ演目の内容を共有しているからです。こうしたほうがいい、ああしたほうがいい、あのやり方がいい、こっちのやり方がいい、そういう風に叱咤激励されてこそ、ソフトウェアも育っていく、それは同じカルチャーだと思います。
僕自身はプログラムはカルチャーだと思っていますし、色々な人がいろいろな方法で実現しているからこそ、面白いものだと思っています。
作る人も、見る人も、使う人も、皆が一緒になって考えられるカルチャーっていうのはいいな、ということを、草若師匠の言葉を聞いて考えました。