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2013-06-28

喫茶店であまちゃんを語る二人(Part 2)

これは、とある時、とある場所で行われたNHK朝の連続テレビ小説「あまちゃん」について語り合った記録から抜粋したメモ書きの続きです。

変化について



D「東京編になって、席を立とうかと思ったという、その一番の原因ってどこにあるんでしょうか。
ストーリーの軸が変わっちゃったとか、全然わからない世界になったとか。」

F「東京編になったということは、宮藤官九郎のホームグラウンドである都会の下町にきたことで僕のほうがアウェーなんです。僕にとって三陸は、無理やり分けると、東京か非東京かというと三陸は非東京ということでこっち側なんですよ。」

D「故郷がその土地とは違っても、自分の知ってる風景を代入出来るっていうのはありますもんね。」

F「今、代入不可能な状態なんです(笑)」

D「あんな、アイドルのどまんなかみたいな場所とか」

F「そうですね、その目線が持てない。」

D「それは厳しいですね。」

F「朝ドラでも例えば、今まで舞台として東京が出てくるのがあったんですけど、たとえば「どんど晴れ」っていう岩手が舞台の作品があって、もともと舞台は、横浜だったかな、東京ではないんだけど、都会がめっちゃ記号的に描かれていたので、あんまり代入する必要がない、都会の暮らしってこんなもん、都会の家庭ってこんなもん、というすごい記号化されたものだけが画面上に現れるのでそんなに深く考えなくてよかったんだけど。いまアメ横とか、アイドルとか、谷中とか」

D「谷中(笑)」

F「なんだかよく分からない風景(笑)」

D「難しいですね、代入出来そうで、できない、今度は自分の知ってる風景じゃなくて、自分の知ってる何かしらの物語を代入するみたいな方法で行けるような気もするんですけど、難しいのは明らかにGMTにしろアメ横女学院にしてもAKBをモチーフにしている。」

F「それが強く出すぎてますよね。」

D「あそこまで強く押し出すのを、まあネーミングは宮藤が考えたんでしょうけど、演出的にあそこまで強く押し出されるっていうのを本人がどこまで意図してたかっていうのはちょっと分からないですけど」

F「それは・・・そうかもしれないですね。」

D「明らかにあの世界にはAKBはいないので、AKBのいない世界なので、僕らの知ってるAKBの姿をあそこに投影してもいいのかもしれない」

F「それが2重の疎外感で・・・AKBのことがわからんのです(笑)」

D「あ・・・(絶句)」

F「今日の松尾スズキのセリフと同意見なんです。で、クドカンも本当はそう思ってるんじゃ・・」

D「あ、それは、そう、ぜったいそっちやと思います。」

F「僕が後半戦に持つ視点っていうのは、脚本家自身、または春子さんかなと」

D「その目線は切らずにちょいちょい入れてくるとおもうんですけど、宮藤官九郎本人はアイドル文化っていうのは斉藤由貴とか好きやったそうなんですけど」

F「プロ意識の高い」

D「キョンキョンとかもすごく好きやったらしくて、そういうのがやっぱり原風景になってるんやろなと。
握手できるとか、会いにいけるとかっていうのはもう、純然たるアイドルじゃないんじゃないかと、あちこちのメディアで喋ってるので、そう言う目線は挟んでくるんじゃないですかね。」

F「舞台の人って、生身っていうことにこだわるのかなと思ってました」

D「あー、こだわりの微細な違いじゃないですかね。ほんとに偶像としてのアイドルが必要なんじゃないか、みたいな話をしようとしてるんじゃないかなと。
ちなみに宮藤官九郎自身は、小泉今日子と一緒にすることになって、とってもがっかりしたと。」

F「ほう」

D「自分の中でアイドルが失われてしまったと」

F「ああ、何処かにいる会えない存在だから好きだったけど、生身のキョンキョンが好きなんじゃなかったっていうことか」

D「やっぱり自分の好きだったのは本当に手の届かないところにいる小泉今日子や斉藤由貴だったんじゃないかと。
そういう「歪み」が(ドラマ中に)出てくるんじゃないかと思ってるんですけどね(笑)」

F「じゃあ、アイドルをあんな描き方を、本当にしたいんでしょうか、変な自己紹介とか。」

D「あれは鈴鹿ひろ美を出してくるための前フリなんじゃないかと僕は思ってるんですけどね」

F「どういうポジションで出てくるんでしょうね」

D「あー、いま、「自己紹介」させてるじゃないですか」

F「はい」

D「自分紹介をするときの人の態度とかが全然違うでしょ一人ひとり。あれ、自己紹介をさせることによって、自己紹介の裏に流れてる人の姿を映し出そうとしてるんじゃないのかなと」

F「??? も、もういちどおねがいします・・・」

D「あの、アイドルの枠っていうか、アイドルの仕事、あれに取り組む一人一人の姿を映し出すほうにむしろ主眼があるんじゃないのかなと。いまアイドルの自己紹介の話ですけど、アイドルの仕事を全うしようとするときに見えてくる一人一人の”アイドルっぽく無いところ”を照射しようとしてるんじゃないかなと思って見てるんですね。どう広げていくのか分からないですけど。

その時に、鈴鹿ひろ美はおそらく登場してくると僕は踏んでるんですけど、鈴鹿ひろ美はきっとGMTとかアメ横女学院とかとはあきらかに切り離された存在として登場してくるんじゃないかなと。純・アイドル観との対比をきっとあれだけ人をいっぱい出して際立たせようとしてる。」

F「物語のトータルで見た時に、そこと「海女」とはどう引っかかってくるんでしょう。」

D「えーと、アイドルとですか」

F「東京でアイドルを描き、アイドルのありかた、みたいなものを描き、あまちゃんという一つの作品の中で一方では三陸の海女をあつかうことによって、同時にこの2つを扱うことによって何を描きたいのかというと」

D「いま考えたんですけど、鈴鹿ひろみ的なアイドルも、AKB的なアイドルもどちらも否定しようとしてないんじゃないか。海女のほうは鈴鹿ひろ美のほうと対応させようとしているんじゃないか。古くからあるアイドルの、そういう形態のものが失われかねない状況にあるという点で対応している。潮騒のメモリーズを地方におけるアイドルとして海女をみてみると、今まで描いてきたのは「会いにいけるアイドル」のほうで書いてる。やっぱりどちらも否定しようとしていないし鈴鹿ひろみ型の存続を狙うのであればAKB的な方法を流用するのもいたしかたないという、そういうオルタナティブな目線が海女のほうにあるような気がします」

F「あまカフェが出来たのは観光海女がヒットしたんじゃなくて、昔ながらの海女というものにこだわらず、現役女子高生海女がいるっていうことで最初ネットで火がついてそれが潮騒のメモリーズとかお座敷列車とかになり、町ぐるみでアイドルをつくり上げることによって結果的に北三陸鉄道が黒字化するという成果をあげて、「海女カフェ」はその成果として描かれてる。」

D「と、思います。アイドルについて書こうとしてアイドルだけを書こうとはしていないし、海女のことを書こうとして執拗に観光協会のこととかその周辺のことも執拗に書いてそれにまつわる経済効果のこととか一杯してたので、そっちのことも大事にしようと思っている。

目線としては例えば、AKBがいなくなったあとの秋葉原はどういうことになるの、という目線もきっとあるんじゃないかなと。いつまでもあるわけじゃないでしょ、という目線もそこには含まれてるような気がします。
っていう意味での、類似した構造をここまでの故郷編とこれからの東京編でからめたりするのかなーーーって」

F「しっかりした物語になりそうですね」

D「しっかりした物語作家やと僕はおもってるんですけど(笑)なんか自分でわざわざそれを崩して書こうとしてるので。今回類似構造がめちゃくちゃ一杯あるなあって。家出の話、母が家出した話とアキが家出しようとしたこととか。もしかすると夏ばっばとアキにも類似構造が出てくるのかもしれないし。似た構造を物語の中に一杯埋め込んでる感じがするので、それをどう紐解いてくっつけたり外したりしていくか、割と後半の大事なところかなと。

歌舞伎とかにけっこう多いですね、類似構造、フラクタル構造とか。四谷怪談とか今読んでるのでわかるんですけど。似た構造の話をなっがい話のそこここにちりばめて、という」

F「物語のフラクタル構造って、物語全体をみるとこういう形である、でも一部を切り取って取り出してみると、それも物語全体と同じ形をしてる、そういう理解でいいんでしょうか。」

D「そういう感じで考えてもらっていいと思います。ただ、全体構造がどういう感じになるのかわからないんですけど」

F「そうなんですよね。こっちとこっち、対称的なことはみえてくるけど、全体はまだですね。
歌舞伎かー、歌舞伎ってお決まりはあるんですか」

D「これは全然確証があっていうんではないんですけど、お決まりにされてしまったこと、時間を経ることで、もうこういうもんだよね、という、いわゆる僕らが知ってる型とかそのレベルで、当時はそんなつもりもなかったけどとか」

F「朝ドラってフォーマットそのものがそれなんですけどね。常に時計表示してるのも皆が時計代わりに見れるからということだし、朝の支度をしながらBGVとして機能することを求められて今の形になってるけど、いまのあまちゃんは目が離せない(笑)

D「ほんとうに、ながら見できない作家なんです、だから視聴率取れないんです(笑)」

F「でも、過去のものも含めて僕がいい朝ドラ作品だと思うものは、8時に、昔は8時15分だったけど、なったらスタンバイして、終わったら出かけるというサイクルに組み込まれてるのがよかった。あんまり、ながら見できる朝ドラが必ずしもいいとは、僕は思ってないんですけど。しっかり向き合って見られるという意味では、僕は宮藤官九郎の朝ドラはすごくいいと思ってます。」

D「そこが宮藤官九郎好きな人間としては不安点で・・・大丈夫?ながら見できないよ?って」

F「そう思ってる人もいると思いますが、僕は朝ドラを割としっかりと見るので。逆にしっかり見られるだけのものがないと見るのを止めてしまうんです。僕が見るのを止めてしまった作品を思い出すと、フラクタル構造も対称構造もなにもない、一本線、ずーっといってちょっとだけ枝葉、なんかこうメインの線を揺さぶって笑いをとるけど、全然見てて面白くない。僕の見方って中途半端だとは思います。ライトでもヘビーでもない。だから作家の事が気になるんです。」


後半にむけて



F「後半戦に向けてここに注目、というところは?」

D「僕はもう、語り手が変わったこと。本当に重くとらえてるんで」

F「ふーむ」

D「ひょっとしたら、序盤の夏ばっばは夏ばっばじゃなかったんじゃないかと思ってるくらいで。」

F「?」

D「前半の語りの夏ばっばは、実はまだ到来していない老年のアキだったんじゃないか、という仮説を立ててるんですよね。夏ばっばの語り、ずっと標準語だったでしょう。なんで標準語なんやろうと思ったんですけど」

F「けっこう自分視点で語ってますね。アキの視点で」

D「なにしやがんだ、このクソババアとか、逆に夏ばっばの視点で語ってたことあったかなと」

F「それは、最終的にどう明かされるんでしょう」

D「でも、仮定なんで、そんな意図全然ないのかもしれないけど、これは語り手が変わったんじゃなくて語り手の時間が戻っただけなんじゃないかと」

F「僕が気になってるのは、「冬」が埋まってなくて、空いてることです」

D「そうですね、僕は娘かなと思ってます」

F「冬子が。 そして、順番も入れ替えてますよね、春ばっば、夏母さんじゃなくて」

D「どっかで絶対やってくるだろうとは思うんですけどね」

F「仮に冬がアキちゃんの子供だとすると、やっぱり子供って命の再生の象徴ですよね」

D「震災の話もありますからね。僕が心配してるのは扱いきれるのか?っていうことですね。」

F「でも震災の話が重要なんじゃなくて、世代が続いていくっていうことと、さっき行ってたようなアイドルっていうものも時代と共に移り変わっていく、海女っていうものも時代とともに移り変わっていく、そういう流れを意識してというか、時代の変遷みたいなものも一番のテーマとして、それは朝ドラのフォーマットといえばフォーマットなんですよ、世代交代とか結婚とか人生イベントは」

D「今回は子供の誕生までいくのかどうか」

F「まだ高校生やしね」

(まだつづく・・・)

2013-06-27

喫茶店であまちゃんを語る二人(Part 1)

これは、とある時、とある場所で行われたNHK朝の連続テレビ小説「あまちゃん」について語り合った記録から抜粋したメモ書きです。


〜 8:00 あまちゃん 放送開始 〜

ドラマトゥルク(以下、D)「語り手が変わりましたね」

私(以下、F)「変わりましたね。珍しいですね」


D「珍しいケースなんですか」

F「そうですね。語り手が変わるってことには何か気になることがあるんですか?」

〜あまちゃん オープニングはじまる〜

D「語り手が変わったことは何を意味してるんやろうと・・・」

F「それはまだわからないけど・・・あ、片桐はいりが帰ってきましたね」

D「もうですか」

F「早かったですね」

D「東京編の登場人物として描いてた可能性がありますよね」

〜 本編開始 〜

D「出て来ましたね」

F「これ誰ですか?」

D「松尾スズキですね。」

F「でも、ここまで大きく変えてくるとは思わなかったです。最近だと・・・カーネーションの主役が交代したとかぐらいしか思い当たらないです。」

D「夏木マリに交代したんですね」

F「おばあちゃんになってからを夏木マリが演じてました。その時は尾野真千子のところだけで終わっていてもいいような作りにはなっていたんですけど。最後の方は夏木マリの迫力で押し切ったような感じでしたけど、最後は主人公自身が劇中で自分が朝ドラの主役になるという」

D「え、そんな終わり方するんですか」

F「主人公が亡くなったあとに、エピローグで娘たちが「お母ちゃんが朝ドラになるらしいで」って話してて、その第一回放送をおそらく主人公の幼馴染みだと思われる人物がテレビで見ていて、オープニングテーマが流れる・・・という流れで終わりました。」



朝ドラの舞台


F「3カ月間地方を入念に描いた分、もうこれだけやったらずっと岩手だけでやってても良かったのではと感じたところに、東京にガっと移って、やっぱり落差が大きいですね。脚本の落差っていうよりも3ヶ月間っていう地方編の長さから」

D「そこからの揺さぶりが強すぎるんですね」

F「強すぎるんです。一ヶ月ですぐこの展開だったらすぐついて行ける。でもこれだけの期間入念にやられると、サウナから水風呂に入れられたみたい」

D「(笑) まるでタッチを変えてきてる、一気に仕切りなおして進めようとしてる」

F「でも、始まる前におっしゃってたけど、むしろ東京編になって筆はのってきてると」

D「あ、そうです、筆はのってます。それはまあ、宮藤官九郎は今までもずっとそうなんですけど、今回って浅草じゃないですか、アメ横とか、ああいう下町の風景とかっていうのを、もう大好きで宮藤官九郎は何度も取り扱うんですけど、ああいう町のモチーフとか、郊外とか下町を執拗に描く傾向があるんですよ。
「タイガーアンドドラゴン」っていう落語のドラマがあったんですけど、たまに外に出ますけど基本的にはだいたい芝居小屋、演芸場のある浅草から出ないとか。原宿もあつかってましたけど」

F「サブカルチャー的な場所を扱うことが多い?」

D「そうですね。都心だったらそういうところが多い」

F「アメ横とか浅草ってそういう感じの場所なんですね」

D「今、あまちゃんで取り扱ってるのはアメ横とか、ああいう町っていうのは宮藤官九郎の系譜からすると極めてストレートな感じです。」


F「今はそういうよく使う手法を朝ドラにあわせているというよりは、クドカンワールドを展開してるんですか」

D「でも筆が乗ってるとはいえ、書き方としてはいつもよりは随分親切に書いてるなと」


序盤はすごかった



D「確かに序盤はすごかったです。こんなん書ける作家になったんやと思って僕も愕然としたぐらいです。前から見てるものとしては、大丈夫なんかな、朝ドラなんか書けるの?って思ってたんです、悪いところもよく知っている部分があるので」

F「でも、テレビドラマの経験が無いってわけじゃないですよね」

D「ダメなときは本当にダメになるんで、連ドラでも」

F「世間的な評価も、酷評されてるんですか?」

D「まあ、ある程度売れてるんで酷評とかはされないけど、まったく話題にならない、作品自体がおおむね黙殺されちゃったり、そういうケースがありますね。脚本だけやったときでもそうですし、「カムイ外伝」をやったとき、あれ監督は崔洋一で脚本は宮藤官九郎、もう、ほんっとうに出来が悪くて、演出も相当アカンかったんですけど、原作をダイジェストにしてみました、ぐらいほんとうにひどくて、宮藤官九郎のヒストリーからも抹消されましたから」

F「なかったことにしてるんですか。ムラがあるんですか」

D「いつも舞台で2時間半とかでまとめるのは得意なはずなのに映画になると失敗しますけど」

F「あまちゃんのなかでも、なんか劇っぽいことやってるときありますよね」

D「あります、あります。」

F「そのへん、ドラマと演劇とは書き分けてる感じなんですか」

D「ドラマのほうはとにかく場面の転換がはやいですね。」

F「ああ、演劇だと一回場面がかわったらずっとしばらくその場面ですね」

D「短いシーンをどんどん積み重ねていくような作り方をするので、舞台だと長い一個の中で成立させようとするかワンシチュエーションで時系列をポンポン飛ばして行ったりとか複数の場面を同時並行して進めるかとかそういう方法を宮藤官九郎はわりと取るんですけど」

F「複数の場面が同時進行ってどういうことですか?」

D「例えば舞台脇にエレベーターがあるとするじゃないですか。そしてそのエレベーターから人が入ってきた瞬間に時代が20年戻るとか、っていうのを回想シーンでやってるかとおもったらその舞台の前面でしゃべってる二人は現在のことをしゃべってるとかっていうのをシームレスにぐるぐる展開したりっていうのが技法のレベルでは多くて、そう言う方法は今回のものに近いかもしれないですね」

F「シーンが切り替わると細かく時間が切り替わると」

D「時間の往還の速度っていうか、現代と80年台を軽やかに行ったり来たりするようなその速度感覚が、その手法に近いかなと」


朝ドラのフォーマット



D「朝ドラってすごい完成されたフォーマットなんやなって思いました」

F「そうですね」

D「宮藤官九郎が入ったぐらいでは、このフォーマットは揺らがないなって。むしろそのフォーマットに飲み込まれてる感じがあるなと思った」

F「そうですか、それはもっと細かく聞きたい」

D「NHKがそのフォーマットを細かく噛み砕いてこのフォーマットなら宮藤官九郎はハマるぞ、と自信があってオファーしたっていうのがやっぱり分かりましたね。なんでだっていうと、まず、宮藤官九郎の最大の弱点はCMを挟まれてしまうといきなり離脱するお客さんが多いっていうことなんですよ。民放でも1時間の放送のなかでどんどん視聴率が下がっていく傾向があるんです。だいたい15分とか20分単位でCM入れていくじゃないですか、そんな中で「一息で見れる時間配分」と、たとえば45分とかだと割とダダっと駆け足でかいちゃったりするんですけど、今回だと一週間で90分じゃないですか、その約90分っていう時間を、ちゃんとした配分で書いてるんやなあと思うので、これは宮藤官九郎にとって大丈夫かなとおもったけど、実はすごく適したフォーマットだったと、割と愕然としてる、ほんとにびっくりしてるんですけど」

F「宮藤官九郎にはこの手があったか、と」

D「こんな手があったかと、15分で区切らすっていう手があったかと、で、何が起きてるかというと、やっぱり今まで宮藤官九郎の作品みて全然はまらなかったっていう人たちが見てたりするんで。」

F「それはテレビドラマを」

D「そう、いままで全然おもしろくなかったけど、今回のは見られるって言ってたりする」

F「NHKの朝ドラというフォーマットが果たしてる役割が大きいと」

D「すごい大きいなと。一目瞭然やなとおもったのは、あまちゃんはある程度、この作品は視聴率を撮り続けてっていう状態がありますけど、もうじき終わりますけど本人が監督した映画が今やってるんですけど、全然アカンかったんですよ。この現象はなんかフォーマットの差っていうか宮藤官九郎に今一般の人たちが求めてるものの差が出てるなと思って」

(Part 2につづく)