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2011-10-26

モバイルアート

一ヶ月のバルセロナ滞在、マラソンで言えばハーフを終えたところでしょうか。
ここからますます足が動かなくなってくるのがマラソンですが、そこからは気力です。

先週は、HANGAR.ORGというところで開催されていた、「モバイル・アート・ラボ」という1週間のワークショップに運良く入り込むことができました。とはいっても観ていただけですけれど。

メディアアートの界隈ではかなりスゴイ人達が参加しており怖気付きましたが、スペインに来てまで遠慮の塊というわけにも行くまいと、どしどし顔を突っ込んでいく日本ではみられないスピリットが炸裂します。



技術的なことは、スペイン語がほとんど分からない私ですがやろうとしていることの意図は伝わってきます。

このワークショップの目的は、1週間でナレッジ(知識)の共有をはかり、モバイルアートの将来の可能性を見出すこと。連絡の道具だった携帯電話もいまや、立派なコンピューターを凌ぐ性能と通信ネットワークを備えています。アートと技術とがコミュニケーションを共通のテーマとして様々な試みが行われています。

内容として扱われていたものは、私自身にとってみれば、これはスゴイ、聞いたこともない、というものではありませんでした。逆に言えば技術的な差は国際間でもそれほど大きいわけではなく、みんな同じような要望をモバイルに対して感じているということが言えると思います。

スマートフォンに限らず、家電でも、電気のスイッチでも、水洗トイレの洗浄ボタンでも、カルチャーは大きく異なります。これは技術力の差だけで説明がつくものでしょうか。

私はこれから世界で日本が、類まれな技術力を売りにしていけるかというと、逆にこのワークショップでの体験から、技術は均質化してきているという印象を受けました。そうなってくると違いはその土地土地のカルチャーから芽生えてくるのではないかと思います。

技術を設備環境だと受け入れるか、道具として自らの意志で駆使するか、それは人の考え方一つによって変わってくるということに思いをはせました。
ただ単に便利になったなあ、とおもうだけではなく、そこに対しての「異議申し立て」がモバイルアートの役割なのではないか、と。

モバイルアートというのは、携帯電話は人のコミュニケーションを司る環境でもあり道具でもあり、人はそれとの関わりを避けて通れなくなっている中で、どのようなスタイルでそれと接するかという人と機械との関係をデザインすることだというのが、この機会を通じての自分の考えでありました。