祇園祭のあいだ妻と娘が帰省していたので、仕事が休みの日を利用して広島まで会いにいったのですが、しばらくぶりに対面しても娘は父ちゃんのことを覚えてくれていたようでした。微妙にジイジと間違えていたフシはありますが。まあこっちも毎晩気兼ねなくツール・ド・フランスを観戦してましたがね。
ただの身体の反射かもしれませんが、にっこりしてくれるだけでもすごい進歩に思えます。無条件にすべてのものが許せるし、好きになるし、多分世界が良いものになる気分です。
ところで、妻と娘の帰省よりも少し前の事、なんのきっかけだったか忘れたけれど、娘と遊んでいると妻から
「なんで自転車に乗ろうと思ったの?」
という質問をされ、その場ではとくに具体的な回答はしなかったのでした。
それからまあ、ぼんやり考えたり、仕事があわただしくて考えることもなかったり。
それで結論を言うなら、「どこかから、自転車の種が飛んできて、芽が出てふくらんだ」というようなことです。
趣味というのは、友達がはこんできたり、本屋でみつけたり、歩いているときにポスターをみかけたり、たまたま映像で出てきたのを見たり、そんなもんです。
たとえば走るとイライラが解消される、という効果めいたものは有るかもしれません。でもイライラしてるのを消したいから自転車に乗り始めたわけではない。イライラ解消されたとしても体は疲れるし、息苦しいし、足は痛いし、おケツも痛い。割にあいません。
いっぽうで、眠いなあ、とか、しんどいなあ、と思うような時でも、5分も走れば自然に体は反応してくるのです。最初の1キロを走ると、次の3キロを走る筋肉が目覚めて起きてくる。3キロを走るころには10キロを走るための身体が起動している、という寸法です。
で、趣味を始める理由って、一人で考えてても見つからないこと、それを他の何かと付き合うことで見つけていく、そういうことなんじゃないかなと思うんです。外からの刺激に対して自分が「YES」と反応する、そのことで「あ、私はこれが好きなんだ」と気づく。だからこれは私にとって自転車に限った話ではないのです。能の稽古を始めたのもそうです。
能の謡って厳密な音階がないんですね。ただ相対的に上音、中音、下音、そして「浮き」という半音の調整がある。だから稽古するたびにまずその日一番大きな声がでる出し方で声を出す。そしてしばらくすると音の上げ下げが安定し始める。これも、やりながら体が起動していく、目覚めていく、という感覚のように思います。
おかしなことかもしれませんが、「趣味があったから、自分が好きなことが何なのかに気がつく」そんな理由でもいいのではないかと思っています。普段それほど無茶苦茶好きであることを意識していなくても、趣味と付き合っていくことで自分の感覚を再認識する、とか。まあ言葉にするとやっかいなのですが、自転車や能は、自分を写す「鏡」なのかもしれません。
父親となった現在、娘が物心ついても、反抗期になっても、成人しても、誰かのお嫁・・・いやゲフンゲフン・・・とにかく、私はそれらの趣味はずっと続けているような気がしています。それが自分にとっての「YES」だからです。
傲慢な言い方ですが、私に長く大切にしてもらえることが分かっていたから、自転車は私のところへやってきた、と、こう言い切ってしまってもいいでしょう。
娘もそうなのだとしたら、なお言うことはないな、と思いながら、広島を後にしました。
(写真:太田川とJR可部線)