コンピュータと人間を、その間にインターフェイスを置いて考える。
インターフェイスは能動態と受動態の間を行き来する。
その場所で観測される意志は、その両方である中動態として存在するか。
モデルニスモの月
電子のネットを自転車ぐらいの速度でかけまわる
2018-01-16
日乗strider
http://www.generative-gestaltung.de/ を丸善で見る。鈍器のやつ。
oFコードへの翻訳を考えるが、どうなるか。12月31日までの厄落とし行に挙げてはみる。
ofDanceVJリポジトリ作成。
JAPAN TECH などという枠づくりには良さを感じない。むしろTECHとDESIGNの間にある国境を早く自由化できないものか。本当は国境はすでに開放されているのだけれど、未だに意識の国境は分厚く隔たっている。
oFコードへの翻訳を考えるが、どうなるか。12月31日までの厄落とし行に挙げてはみる。
ofDanceVJリポジトリ作成。
JAPAN TECH などという枠づくりには良さを感じない。むしろTECHとDESIGNの間にある国境を早く自由化できないものか。本当は国境はすでに開放されているのだけれど、未だに意識の国境は分厚く隔たっている。
2014-09-28
2014-09-25
花子さん、いくらなんでもあんまりです
朝ドラ「花子とアン」はついに最終回まであと3話。
このドラマではいつも唐突なエピソードが現れる。
なんの前触れもなく突然自宅に図書館が設立されたり、いきなり美里が館長になっていたり。
そして「赤毛のアン」のファン代表として茂木健一郎氏がドラマに出演しましたが、
「芝居経験のない人に長い台詞を言わせると、覚えることが精一杯でああなってしまいう」(演劇制作関係者・談)
という、棒読み全開の演技を披露したとしても、それでも私は温かい目で「花子とアン」から「マッサン」へのバトンリレーを見守ろうとおもっておりました。
しかし、
今回はあまりにもひどいエピソードだったので、一体何が起こったのか、自分の混乱を鎮める意味で少し書くことにしました。
まず、美里のキャラ設定です。
美里ってそんなキレやすい子じゃなかったでしょう。
たしかに私も途中からは流し見するようになって、そこまで各キャラクターの性格を掘り下げて見ていたわけではありません。でもこんな人にたいして食って掛かるようなセリフ回しをする人物になっているのは唐突だと感じます。
「18歳の女の子」というのは変化の多い、そして不安定なところの多い時期にあたるのかもしれません。昨日まで子供だと思っていたのに、今日になってみたら突然大人のように見えることは普通にあるのかもしれません。
それはわかります。
しかしですよ、これは「朝ドラです」
まず「朝ドラ」と呼ばれていますが、これは正式には「朝の連続テレビ小説」です。
その名があらわすように、連続性が最も重視されるドラマなのです。
「半年のあいだ見続けて、よかったなあ」
と感じることが朝ドラの良し悪しを決めると言っても過言ではありません。
毎日見ている人が「え?そんな話あったっけ?」と感じるような連続性を損なう表現はよくないです。
また今作は、
「朝ドラ史上最高のタイトル詐欺」
と言われるほど「アン」の劇中での存在は希薄です。中盤は「白蓮と伝助」にタイトルを変えろ、という声も出ていたほどです。
劇中での花子の出来事とアンの出来事との重ね合わせたり、数奇な運命の一致などを描くことについても、一応の注目をしてきました。赤毛のアンが大好きだという「ほぼ2畳大学」学長からも、ドラマ放送開始時にレクチャーを受けて、原作はどんな話だったのかも頭に入れてきました。
結論として、花子の人生とアンの人生をオーバーラップさせるという目論見については「失敗」ということで、それはそれで片付いていたのです。
しかしここにきて、最終回を目前にして蒸し返すようなことをします。
いや、視聴者もそんなこと知りませんでしたよ。
そんな衝動を匂わす演出はいったい何処にあったというのでしょう。
こういったセリフを美里に言わせることで
「ああ! 原作・赤毛のアンの娘もこういう性格だったわね、私は読んだことあるから知っているわよ」
と視聴者に思わせたいのでしょうか。
はっきりいって手遅れです。
もう、みんな心のなかで
「花子ってまるでアンみたいだね、って言わしたいんだよね」
と、気付いてますよ。
でも、全然、そうは見えないのです。だから、そのことについてはもう不問にしておこうと。いつまでたっても赤毛のアンの原書が出てこない。そしてある日唐突になんの脈絡もなく、スコット先生が花子に渡すという展開に、もう、諦めがついたのです。
もう、「アン」はおまけだったんだと、そういうことで納得していたのです。
ところが、
ここにきて、
突然出てきたキャラクターが、
こう言うのです。
・・・
・・・
・・・
そんなこと、一番最初から見ている視聴者はわかっているんですよ。
馬鹿にしているんですか。
言うだけ野暮ってやつですよ。
途中から白蓮と伝助の話になってたじゃないですか。
一貫性も連続性もないじゃないですか。
いまさら、タイトル詐欺をとりつくろうように、アンと花子のつながりを
強調したって
それは、失敗したんですよ。
それは描けてないんですよ。
あきらめてください。
もう、
何もしないでください。
おとなしく
終わってください。
茂木さんは何も悪くありません。
機会があれば、ちゃんと演技指導を受けてみてください。
なんだったら、髪の毛を赤く染めて再登場してください。
このドラマではいつも唐突なエピソードが現れる。
なんの前触れもなく突然自宅に図書館が設立されたり、いきなり美里が館長になっていたり。
そして「赤毛のアン」のファン代表として茂木健一郎氏がドラマに出演しましたが、
「芝居経験のない人に長い台詞を言わせると、覚えることが精一杯でああなってしまいう」(演劇制作関係者・談)
という、棒読み全開の演技を披露したとしても、それでも私は温かい目で「花子とアン」から「マッサン」へのバトンリレーを見守ろうとおもっておりました。
しかし、
今回はあまりにもひどいエピソードだったので、一体何が起こったのか、自分の混乱を鎮める意味で少し書くことにしました。
まず、美里のキャラ設定です。
美里ってそんなキレやすい子じゃなかったでしょう。
たしかに私も途中からは流し見するようになって、そこまで各キャラクターの性格を掘り下げて見ていたわけではありません。でもこんな人にたいして食って掛かるようなセリフ回しをする人物になっているのは唐突だと感じます。
「18歳の女の子」というのは変化の多い、そして不安定なところの多い時期にあたるのかもしれません。昨日まで子供だと思っていたのに、今日になってみたら突然大人のように見えることは普通にあるのかもしれません。
それはわかります。
しかしですよ、これは「朝ドラです」
まず「朝ドラ」と呼ばれていますが、これは正式には「朝の連続テレビ小説」です。
その名があらわすように、連続性が最も重視されるドラマなのです。
「半年のあいだ見続けて、よかったなあ」
と感じることが朝ドラの良し悪しを決めると言っても過言ではありません。
毎日見ている人が「え?そんな話あったっけ?」と感じるような連続性を損なう表現はよくないです。
また今作は、
「朝ドラ史上最高のタイトル詐欺」
と言われるほど「アン」の劇中での存在は希薄です。中盤は「白蓮と伝助」にタイトルを変えろ、という声も出ていたほどです。
劇中での花子の出来事とアンの出来事との重ね合わせたり、数奇な運命の一致などを描くことについても、一応の注目をしてきました。赤毛のアンが大好きだという「ほぼ2畳大学」学長からも、ドラマ放送開始時にレクチャーを受けて、原作はどんな話だったのかも頭に入れてきました。
結論として、花子の人生とアンの人生をオーバーラップさせるという目論見については「失敗」ということで、それはそれで片付いていたのです。
しかしここにきて、最終回を目前にして蒸し返すようなことをします。
いや、視聴者もそんなこと知りませんでしたよ。
そんな衝動を匂わす演出はいったい何処にあったというのでしょう。
こういったセリフを美里に言わせることで
「ああ! 原作・赤毛のアンの娘もこういう性格だったわね、私は読んだことあるから知っているわよ」
と視聴者に思わせたいのでしょうか。
はっきりいって手遅れです。
もう、みんな心のなかで
「花子ってまるでアンみたいだね、って言わしたいんだよね」
と、気付いてますよ。
でも、全然、そうは見えないのです。だから、そのことについてはもう不問にしておこうと。いつまでたっても赤毛のアンの原書が出てこない。そしてある日唐突になんの脈絡もなく、スコット先生が花子に渡すという展開に、もう、諦めがついたのです。
もう、「アン」はおまけだったんだと、そういうことで納得していたのです。
ところが、
ここにきて、
突然出てきたキャラクターが、
こう言うのです。
・・・
・・・
・・・
馬鹿にしているんですか。
言うだけ野暮ってやつですよ。
途中から白蓮と伝助の話になってたじゃないですか。
一貫性も連続性もないじゃないですか。
いまさら、タイトル詐欺をとりつくろうように、アンと花子のつながりを
強調したって
それは、失敗したんですよ。
それは描けてないんですよ。
あきらめてください。
もう、
何もしないでください。
おとなしく
終わってください。
茂木さんは何も悪くありません。
機会があれば、ちゃんと演技指導を受けてみてください。
なんだったら、髪の毛を赤く染めて再登場してください。
2014-01-16
ハモニカつくってみた
昨年末に、ごちそうさんレシピ料理をやろうとおもっていたのですが、つくろうと思っていた「イワシのつみれ」が、イワシが市場で手に入らないという事態に陥り、延期になっておりました。
今回ようやっと、皆さんと一緒にごちそうさんレシピを作ってみることができました。
やろうと計画していたことが、イワシが穫れないという理由で阻まれたことには、普段感じることの少ない食べることや生活が自然と一つに繋がっているということを感じさせられる機会にもなり、むしろありがたい経験をしたと思います。
スコッチエッグ、関東煮、ハモニカ、そして握った人にしか中の具がわからない「闇おむすび」を各自持参した具を使って作りました。
イワシは和枝姉さんが帰ってきた時にとっておこうと思います。
今回ようやっと、皆さんと一緒にごちそうさんレシピを作ってみることができました。
やろうと計画していたことが、イワシが穫れないという理由で阻まれたことには、普段感じることの少ない食べることや生活が自然と一つに繋がっているということを感じさせられる機会にもなり、むしろありがたい経験をしたと思います。
スコッチエッグ、関東煮、ハモニカ、そして握った人にしか中の具がわからない「闇おむすび」を各自持参した具を使って作りました。
ハモニカを型に流しこむ
料理は科学、スコッチエッグ
ブサイクなハモニカ
でも、おいしい
料理にまつわるシーンを映像でみながらいただきます
ごちそうさんでした
イワシは和枝姉さんが帰ってきた時にとっておこうと思います。
2013-12-16
ごちりとうさん (37)
西門家は偉大な人を手放してしまいました。
スタートから折り返しの年末まで、まちがいなくこのドラマの主軸であり強烈な印象を残したのは間違いありません、西門和枝姉さん、堂々の退場でございます。
そこで我々「朝ドラ学部」としましてはその偉業を称え、年始から始まる後半においてもその存在感を忘れないため、また待望される再登場を祈念して、ささやかな食事会を催すことにいたしました。
ここはもちろん和枝さんの好物「鰯」を食べるべきだろう、そしてお惣菜を買ってきて済ませるなどという準備を和枝姉さんが許すはずもないだろう、「始末」してこそ「ごちそうさん」、ということで、今回は
鰯のつみれを作って食べます。
そうです、和枝さんが鰯を調理しながら、大粒の涙とともに全てを言葉にする、あの名シーンを再現するのです。
朝ドラを楽しんでいる人もあまちゃんが終わってからは見ていないという人も、和枝ねえさん派もめ以子派も、年の瀬に朝ドラを肴にして、皆で食卓を囲んで「ごちそうさん」の話でもしようかと思います。
参加に関してのお問い合わせは「岩戸山ほぼ2畳大学」から改めて案内させていただきますので、どうぞお楽しみに。
ーーー基本情報ーーー
「朝ドラ学部プロデュース 西門和枝さん記念 イワシを始末する食事会」
イワシを自分たちで洗ってさばいて、つみれを作って食べませんか。
その他イワシを使った料理なども用意します。
とき:12月27日(金)19:00より
ところ:AKIKAN 京都市下京区岩戸山町440江村ビル3F
2013-12-11
ごちりとうさん (36)
録画が溜まってしまいましたが、復帰しました。
ちりとてちんは「師匠の苦悩」とくに、女弟子をとった草若の戸惑いが重要です。喜代美を弟子に取る時に父親に向かって「これから大変だっせ、わたしも、あんたも」という言葉がありましたが、それはこういうことだったのです。
女の子はどこまでいっても母親と仲良しこよしなんですね。それは女の目線でみればそうではない、という意見もあるのでしょうけれど、仲良しこよしの意味合いというのは一定の尺度で測れるとは限らないのです。
ごちそうさんの西門家の姿は、なんだか複雑で、仲良しこよしとは一概には言えないかもしれません。けれど「幸せの形は家族それぞれ」という至極まっとうでシンプルな解答をドラマにしています。正蔵さんの「帰らんのがせめてもの筋や」という生き方はやせ我慢なのかもしれませんが、家族のためであれば何でもできるという考え方のバリエーションの一つです。
その結果としての正蔵さんは、中身の無い、実のない、女にだらしない人物であればあるほど、西門家のまとまりは強くなります。しかしその弱さを認めているのも西門家ですし、西門家でなければ正蔵さんとつながってはいられません。だから今の西門家というのはすごく安定しているように感じられました。
私が繰り返しに「風のハルカ」の再放送を主張するのは、現代において「家族とはどういう姿をとるのか」ということには正しい解答はなく、常に変化するものだということを見直す時期に来ているということであって、黒川芽以ちゃんと宮嶋麻衣ちゃんと高畑充希ちゃんと、家族になって義妹にするなら誰がいいか、とかいう妄想を繰り広げたいわけでは決してありません。
ちりとてちんは「師匠の苦悩」とくに、女弟子をとった草若の戸惑いが重要です。喜代美を弟子に取る時に父親に向かって「これから大変だっせ、わたしも、あんたも」という言葉がありましたが、それはこういうことだったのです。
女の子はどこまでいっても母親と仲良しこよしなんですね。それは女の目線でみればそうではない、という意見もあるのでしょうけれど、仲良しこよしの意味合いというのは一定の尺度で測れるとは限らないのです。
ごちそうさんの西門家の姿は、なんだか複雑で、仲良しこよしとは一概には言えないかもしれません。けれど「幸せの形は家族それぞれ」という至極まっとうでシンプルな解答をドラマにしています。正蔵さんの「帰らんのがせめてもの筋や」という生き方はやせ我慢なのかもしれませんが、家族のためであれば何でもできるという考え方のバリエーションの一つです。
その結果としての正蔵さんは、中身の無い、実のない、女にだらしない人物であればあるほど、西門家のまとまりは強くなります。しかしその弱さを認めているのも西門家ですし、西門家でなければ正蔵さんとつながってはいられません。だから今の西門家というのはすごく安定しているように感じられました。
私が繰り返しに「風のハルカ」の再放送を主張するのは、現代において「家族とはどういう姿をとるのか」ということには正しい解答はなく、常に変化するものだということを見直す時期に来ているということであって、黒川芽以ちゃんと宮嶋麻衣ちゃんと高畑充希ちゃんと、家族になって義妹にするなら誰がいいか、とかいう妄想を繰り広げたいわけでは決してありません。
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